寺の歴史

 愛知川を渡れば神崎の郡なり。川堤に沿いて建部の庄野村に至れば、いと尊き御寺ありけり。是なん里人に尋ぬるに弘誓寺とぞ教へける。ゆくままに上人にまみえ物がたりしそむるに、此寺を建立せられし人を問ひぬれば、昔那須氏與市といふ人の子の姓、七騎にわかれて、近江の国南の地にはじめ七弘誓寺を建てられけるに、其一宇なりと縁起に載せてありとぞ上人の申されける。

「来てみれば よそにかわりて 草も木も 御法にもれぬ 露の色かな」

と『澤藻集』に語られている。

浄土宗報身山無量院弘誓寺は田園の中に静かな佇まいを保っている。寺伝によると延暦10年(791年)当寺は建部社の神宮寺で大願寺と称し、建部家の菩提寺で延暦寺乗止観院に属していた。近江の七弘誓寺の一つで建部弘誓寺として有名である。七弘誓寺とは中興の祖、源平の戦いの「扇の的」で有名な那須與市宗高に七児あり、それぞれ一寺を建立し弘誓寺と称した七つの寺の事である。その中で、二男願名坊宗信が関東下野国から近江の国に封ぜられた父に従って石畑建部の領主となり、発心して当寺を建立したのが正元元年(1259年)2月7日の事である。開基は文永元年(1265年)2月15日と記録されている。

野洲木部錦織寺は浄土真宗木辺派の本山である。天安2年(858年)慈覚大師の御指示で御堂が建てられ毘沙門天王の像が安置された所で、この毘沙門天王のお告げを承けて親鸞聖人がこの御堂にお立ち寄りになったところ、地頭石畠氏(那須氏)の懇願に応じてしばらくご逗留なされてお念仏の法をお説きになったという。康安元年(1361年)には法然上人の遺骨を受けた。永徳3年(1383年)慈観が『浄土宗一流血脈譜系」を著す。永禄12年(1569年)二宗兼学となる。寛文8年(1668年)忍誉が錦織寺を浄土宗に転宗しようとしたが、江戸寺社奉行は古法の通りすべしと裁択、これにより忍誉は追放された。その為、建部弘誓寺だけが現在も浄土宗寺院を継承している。錦織寺の現在の本堂は増上寺法主(三縁山主)の上棟で建立されている。

安土浄厳院は天正5年(1577年)織田信長によって建立された浄土宗寺院で、その時の四天王が金勝、永原、瀧、建部である。弘誓寺33世實誉岳純遷化の為、安土浄厳院の高山龍善御前が兼務された。

建部弘誓寺が安土浄厳院の配下に入る理由の一つに、弘誓寺にある法然上人御真筆の「南無阿弥陀佛」の名号が焼け残ったという伝承がある。信長は安土に築城した際、箕作山に近く要所である弘誓寺を戦略的に保護した。弘誓寺にある『圓光大師焼残御名号伝記』(慶長2年)によると、法然上人が九条兼実の懇望で書写した御名号が知恩院に保存されていたが、応仁の乱を避ける為、伊香立新知恩院を経て真如堂に移された。永禄年間(1560年代)に沙門大僧都長秀の甥を通じて弘誓寺に伝来したとの記録が残っている。信長は安土浄厳院に法然上人の「ゆかりの品」を求めたと思われる。また弘誓寺には浄厳院の関係で織田家の位牌も安置している。

 

 

 

 

享保12年(1727年)本堂を改築した際、彦根藩の領地である永源寺より御木材を下附されて愛知川筋下野村までの間、不浄のものを流すことを禁じた御達しが出された。

弘誓寺は幾度となく火災にあっている。客殿は安永3年(1774年)に落慶したが、わずか7年後の天明元年(1781年)正月に門・鐘楼を残して、本堂・玄関・客殿(庫裡)すべてが灰燼となった。

現在の客殿(庫裡)は25代映誉代の享保3年(1803年)11月11日に上棟されており文化年間の法然上人600回忌に備えた。築210年、間口十間、奥行き八間の「三列三部屋」で襖を取り外すと百畳を超える大広間となる。台所は戦時の籠城にも耐える「陣屋仕立」であり、「妻入り」「煙出し」の寺院建築の残る貴重な庫裡である。現存する建物で一番古いのが「門」で享保6年(1761年)に建築されている。寄進者名が「扁額裏」に書かれており、北町屋(塚本家)、新堂(深尾家、布施家)、下野(渡辺家)に並んで金屋の堤次兵衛の名も記録されている。 17代即誉代の元禄6年(1693年)に作られた梵鐘があったが戦争で供出された。昭和21年、34世深誉代に五個荘三ツ俣の西澤梵鐘で再製された。本堂は天明8年(1788年)映誉代に「再建」され築230年、大工の棟梁は坂田郡顔戸村羽淵治郎助、脇棟梁は常喜村中村文治で十間四面の建物である。

 

玄関も彦根藩主を迎えるための豪荘建築で間口六間、奥行四間である。塔頭に正壽庵・誠心庵・大塚庵・華蔵堂があり、隠居場ともなっていた。常時弟子も多く抱えていた。建部弘誓寺は愛知郡や神崎郡、五個荘にも門徒が多く、竜田「小杉」一族の「竜田部屋」、北町屋「塚本」一族の「町屋部屋」、愛知会所「地蔵堂」が境内に増設された。

江戸時代、弘誓寺は多くの末寺を持つ近江の浄土宗有力寺院であり、また近江の国一円を支配した安土浄厳院の末寺であった。

建部村上中 常徳寺      旭村奥 浄光寺        建部村北 吉祥院

旭村伊野部 正福寺      御薗村河合寺 西連寺     旭村山本 善覺寺

旭村新堂 圓光寺       豊椋村大清水の常福寺     豊椋村南清水 圓壽院

豊椋村北清水 玉寶院     豊椋村南清水 東覺寺     豊國村平居 生蓮寺

豊國村畑田 廣照寺      西押立村北菩提寺 専念寺   西押立村南菩提寺 昌善寺

西押立村西菩提寺 薬師堂   西押立村横溝 正圓寺     東押立村小八木 常照院

東小椋村黄和田 大善寺    玉緒村下大森 法蔵寺     桜川村石塔 極楽寺

玉緒村下大森 極楽寺     玉緒村土器 攝待寺      旭村平坂 明珠庵

建部村大塚 庵

などの寺院の木札が現在でも庫裡に揚げられている。それ以前は「末寺三十四」などとも言われていた。

前栽は彦根藩士の関係にて、江戸末期から明治時代に活躍した作庭師、勝元鈍穴の作とみられる。勝元鈍穴は近江国坂田郡勝村(現在の滋賀県長浜市)に生まれ、関東から近畿にかけて527もの庭園を手掛け、その庭園は「鈍穴の庭」と称されている。昭和51年(1976年)に鈍穴の弟子であり初代と二代目がその流儀を汲む五個荘金堂の花文の4代目、文七郎により庭の改修がなされている。

弘誓寺の歴代住職は以下である。(現住職は35世)

開基 観誉音阿和尚
二世 殊誉永慶和尚
三世 源誉西悦和尚
四世 仲誉松阿和尚
五世 縁誉宗因和尚
六世 見誉宗永和尚
七世 覚誉正春和尚
八世 専誉念西和尚
九世 浄誉高清和尚
十世 蓮誉宗慶和尚
十一世 誓誉正順和尚
十二世 由誉永壽和尚
十三世 旭蓮社慶誉上人専入和尚
十四世 眞蓮社聖誉如覚儀童大和尚
十五世 然蓮社廓誉松阿笛堂和尚
十六世 信蓮社単誉源阿法泉的含和尚
十七世 相蓮社即誉上人専阿義空智廓大和尚
十八世 本蓮社徳誉上人求道龍白大和尚
十九世 聲誉上人即現和尚
二十世 頓蓮社教誉上人一阿見貞大和尚
二十一世 軟蓮社光誉上人柔阿智観大和尚
二十二世 瑞蓮社霊誉上人圓阿照山大和尚
二十三世 順蓮社教誉上人聲阿恵海大和尚
二十四世 通蓮社貫誉上人照阿奥信玄的大和尚
二十五世 光蓮社映誉上人玄阿相発霊感大和尚
二十六世 良蓮社賢誉上人仁阿霊 大和尚
二十七世 得蓮社法誉上人三阿化右了忍大和尚
二十八世 清蓮社浄誉上人珠阿如意道圓大和尚
二十九世 法蓮社性誉上人真阿北頭了寛大和尚
三十世 定蓮社慧誉上人戒阿解脱法習大和尚
三十一世 常連社轉誉上人輪阿法善龍岳大和尚
三十二世 響蓮社聲誉上人妙阿十方岳音大和尚
三十三世 聲蓮社實誉上人相阿音響岳純大和尚
三十四世 高蓮社深誉上人龍阿秀岳法純大和尚

 

 

 

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